人工知能と身体性

種目は何であれ、スポーツをするときには、体の各部を通じて外部の感触や圧力などを感じるだろう。弦楽器の演奏の際には、指先で弦の感触を感じることは重要だ。また、歩くことひとつをとっても、路面とのコンタクトや重心のバランスを把握し、筋肉などの動きを調節する必要がある。

こうしたものは、体で感じるもの、すなわち人間の身体性(Embodiment)によるものだ。身体は外界の情報を感じとり、今度は外界に対して働きかける。楽器の演奏から、スポーツ、絵画、陶芸に至るまで、何か別の目的のためというよりも、身体性を通じた行為そのものに、愉しみを見出すこともあるだろう。

ところで、近年発展がめざましいコンピュータや人工知能は、一定の枠の中、すなわち「記号」となった情報を扱うことを中心に開発されてきた。「1」に「1」を加えれば「2」となったり、データベースから名前の一致するものを検索して表示する、といったものだ。こうした記号操作を究極まで高度化していけば、人間を超えるような人工知能が生まれるのではないか、という期待が高まっている。

しかし、物事はそう簡単ではない。知能が成立するためには、身体が不可欠であるという考え方がある。チューリッヒ大学のファイファー教授らの著書『知能の原理(原題:How the body shapes the way we think)』によると、人間の神経システムは身体全体に分散しており、必ずしも脳が身体をコントロールするという関係ではない。脳と体は相互に連携しながら知性を実現しているという。

また、人間は身体があるからこそ物事を認知したり、思考したりすることができるともいう。そのメカニズムは大雑把に言うとこうだ。人は身体の隅々に埋め込まれたセンサーを通じて、外界の様子を知覚する。知覚した情報は、連続的で複合的なものだ。こうして得られた実世界に関する豊富な知覚に対して、単純化のために「車」とか「時計」などの記号を与えて処理するようになる。つまり、身体で得た感覚と、記号とを対応させることで、認知しているのである。

ここに現在の人工知能開発の限界がある。単純にコンピュータに「クルマ」という記号を与えたところで、人間であれば得られたはずの豊かな身体的感覚(重い、速い、硬い、動く、操作できる等)が無いため、コンピュータは「クルマ」を理解したことにはならないのである。これは「記号接地問題(シンボル・グラウンディング問題)」と呼ばれるもので、いかにコンピュータが「理解」することが難しいかを示している。

また、ファイファー教授らは、脳がなくても知的なふるまいはできることも示している。巧妙に設計された神経的、物理的な仕掛けだけで、知的に見える動作を実現することができるという(例えば坂道を歩くロボットなど)。この考え方に基づけば、音楽家が絶妙な音程で演奏できるのも、もしかすると脳の命令に従って指先が反応しているのではなく、身体的な機能に依存している面があるのかもしれない。

一方、最近の人工知能は、身体的領域にまで進出しようとしているのも確かだ。自動運転車は、車載カメラやレーダーによって白線の位置や、前方のクルマとの位置関係を割り出したり、前にあるのが模様なのか物体なのかを瞬時に判断する。こうした機能は、人間の持つ感覚に近いものがある。ただし、その過程で得られる情報からは、人間のように痛みや快感などの感覚、そして、そこから発生する「身を守りたい」といった目的などは得られない。人間の身体性とはまだまだ乖離があるというべきだろう。

我々の生活を振り返ってみると、技術の発展で世の中が便利になるに従い、人間が身体で何かを感じ、身体で働きかけるという機会は徐々に減りつつある。しかし、身体性に立脚した感覚は、人間とコンピュータを隔てる決定的な要素であり、知性の源泉でもある。仕事であれ、スポーツであれ、音楽であれ、最後に人間にしかできないことは、身体性に立脚した目的を発見し、身体性によって実現される活動かもしれない。しかも、身体によって、我々はより知的になれるかもしれないのだ。技術があらゆるものを置き換えていく今日、ささやかな抵抗として、こうした活動を大事にしていこうと思うのである。